浄土真宗大谷派宝池山浄泉寺(宮城県大崎市岩出山)

本堂新築

記念法話

心豊かな安らかな人生を生み出す源泉として、この浄泉寺本堂が活用されて行くことは、誠に尊く有難いことだと、碧祥寺の太田祖電住職よりお話しいただきました。

いのちの郷

岩手県沢内村 碧祥寺  住職 太田 祖電

太田祖電住職  この度は皆様方のご本堂が立派に建立されまして、誠にありがたいことであると思っており、心からお慶び申上げます。
常日頃は、寺と申しますと葬儀や法事など、いわゆるマイナスの面で集まることが多いのでありますが、ことに、昨年のような大凶作の年に、いわば逆縁を縁として、災いを転じて幸いとし、ここに本堂が立派に完成され、満足の心をもって集うことは、生涯にないことであります。
寺は、このようなことをとおして私達の身と心の落ち着き場をいただいて行く道場でございます。そして、皆様のところにある仏壇を、私どもはお内仏とこう申しており、その内仏様は、このご本堂の荘厳(お飾りの仕方)を基本として皆様の家で朝夕にお詣りをするところであります。
 蓮如上人(本願寺八代目上人)の申されたお言葉の中に、「お聖教は読みやぶれ、ご本尊は掛けやぶれ」というお言葉があります。「お聖教は、読みやぶれ」は、一生懸命読んでいるから読み破れることは分かりますが、「ご本尊は掛けやぶれ」は、ご本尊は破れるはずがないのではないかと思いがちです。しかし、ご本尊は掛軸なので、お詣りの度にご本尊をかけて拝み、終われば巻いて大切にしまい、また掛けて・・・、ということから「ご本尊は掛けやぶれ」の言葉が出て来たのだと分かります。
 現在の荘厳についてお話しますと。お内仏様の一番前(前卓)には、五具足と言い、花瓶二、ローソク台二、香炉一を供え、これが基本となります。それを簡略化したものが、花瓶一、ローソク台一、香炉一で、これを三具足と言い、この荘厳が一般的なものです。花瓶やローソク台にはそれぞれ意味があり、み仏様のお心、お浄土の世界を私達に示しております。み仏様が、私達を救って下さる心として大きく分けて二つあります。一つは智慧、一つは慈悲であります。智慧とは光であり、慈悲とはいのちであります。
 智慧とは、み仏様の光のはたらきであり、日常の生活において[自分がもうけなければ幸せになれない」というような、物欲と我執にとらわれて豊かさに気がつかない、その様な気持ちをもっている私、“むさぼり・ねたみ・いかり・そねみ・はらだち・うそ・いつわり”そんなあさましい心に気がつかないでいる私をあきらかにさせていただくことをいいます。
慈悲とは、み仏様の大悲の心のあらわれで、いつでも私達の人生というものお案じられて、生かされて生きる、人生の深さ、尊さを思うことであります。
 宗祖親鸞聖人は、死後とか生前とかの区別をなくして、無限なるいのちのひとこまの中に私達のいのちが生かされていると説いており、無限なるいのち、無限なる光、すなわち無量寿、無量光と釈されています。阿弥陀様とは、無量寿(慈悲)であり、無量光(智慧)であります。これを表したのが正信偈の最初の言葉「帰命無量寿如来南無不可思議光」で、「命限りなきみ仏様に帰命し、光限りなきみ仏様を信じて行きます」と、み仏様の智慧のはたらきによって、機の深心、あさましい私があきらかになって行き、み仏様の慈悲のはたらきによって、私達はそこに生かされて生きる人生の深さ、尊さが味わえた無限なるいのちのひとこまが、吾が人生のいのちであり、死後とか生前とかを越えて無量寿の世界の中に安心立命・南無阿弥陀仏のお念仏としていただけるわけであります。
 お香とは、み仏様のおられるところを清浄にするために使います。
 五具足(三具足)の両脇に輪灯を備えます。輪灯、いわゆる廻る灯で、向かって右側がお日様を表していて、左側はお月様を表しています。お日様は智慧を表わし、お月様は慈悲を表わしています。また、右側がお父さん、左側はお母さんともたとえられています。須弥檀は皆さんのところのお内仏の一番高い所にあり、その下のギザギザは、飾りではなく須弥山を略したものです。五三界に分けている、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天上(六道)・・・声聞・縁覚・菩薩・仏と一番上が、無限なるみ仏様の世界で、必らず金が用いられ、光輝き満ちる世界と、お経にも説かれています。金は、何千年何万年たっても変わらず、お浄土の世界もいつまでも変わらないという意味をもっております。ところが近頃は、金ではなく紫檀がいいと言われておりますが、基本的には金であります。仏壇の下の方は黒い色ですが、これはこの世の迷いの世界を表しております。
 打敷は、平素は使用せず、法事・報恩講・お盆・彼岸などの行事の時だけ使います。打敷は格好がいいからといっていつも使っている家が随分ありますが、毎月のご命日にも使いません。普段私達がお詣りする時には、手を合わせてお詣りしますけれども、重い儀式のときには五体投地(体全体を倒れ伏して礼拝する)をします。その際に敷物として使用されたものが打敷ですが、現在はお内仏の荘厳として使われています。
 また、ご本尊の前の卓(上卓)にお仏飯を一つ供えます。お仏飯は阿弥陀様に供えればすべてに供えたことになります。お仏飯の前に華瓶を備えます。これは、冬でも葉の落ちない常緑なる木の枝を供えることをいい、いわゆる水を供えることになります。
 お位牌は、中陰の位牌といって、四十九日の間だけ白木の位牌です。それが終わりますとそれを寺に納めます。その後、法名軸に書きお内仏様の向って右側に掛けておきます。数が多くなると沢山書ける軸がありますから、それに書いて掛けます。右の方はいつも新しいもの、左は先祖代々の方々の軸となります。それも略式として法名帖があります。 1 日〜 31 日まで毎日、お詣りの時にそれを開いて、亡き人をとおしてみ仏様のお心をいただいて行くということです。
 お寺は正しく根本の道場であります。そして家庭もまた聞法の道場となります。道場から道場に通じているのが、南無阿弥陀仏のお念仏一つでありますから。ここに立派にお建てになったご本堂を聞法の道場として、私達の人生にみ仏様の輝く智慧と光をいただきながら、そこに生きる勇気と、一日一日生かされて生きる深き尊さを味わい、心豊かな安らかな人生を生み出す源泉として、この本堂が活用されて行くことは、誠に尊く有難いことだと思います。

合掌