発行者 浄泉寺住職 赤羽根 證信
浄泉寺住職 赤羽根 證信
無明長夜の 燈炬なり 智眠くらしと 悲しむな 生死大海の 船筏なり 罪障おもしと なげかざれ (和讃)
宗祖親鸞聖人が 9 歳で出家され仏門に入り、天台宗の聖地比叡山延暦寺での 20 年間の修行は、ひたすら仏の教にこの身を律する生活だったのでしたが、いずれの業もおよびがたき身の空しさを感じられ、山を下りられます。
この身いかに生くべきか……
苦しみの末、
「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」と娑婆に生きる庶民の中に、仏の教を説く浄土宗の宗祖法然上人の門下に連なります。
しかし 6 年後、親鸞 35 歳、朝廷の念佛弾圧に遭い僧侶としての身分を剥奪され、流罪の身となり、師の法然上人は四国土佐の地に、親鸞は越後(新潟県)に流されます。
越後の地は、きびしい自然環境の中で幾重にも続く生活苦をただ黙々と土に這いつくばる様にして生きて行かねばならない人々、京都育ちの親鸞にとって想像を絶する世界であったでしょう。
「本願を信じ 念佛申せば ほとけになる」
師の法然上人との出遇いは苦境の、正に黒闇を脱す恵灯の様に、親鸞聖人の生涯を導いて行ったのです。時に( 1207 年)今年で丁度 800 年になります。
私達は、仏の教と日常の生活は別のことと思いがちですが、日暮の中にこそ仏の教があり念仏があると思うのです。
新しい年に入ってもなお、繰り返し繰り返し凄惨な事件が起きています。
物質的な豊かさばかりを追い求めて、ついにはこの身をも亡ぼしてしまうおろかさに気づきはじめてもいいのでしょう。
「今、いのちが あなたを 生きている」
5 年後( 2012 年)親鸞聖人七百五十回ご縁忌のテーマです。
今を生きる自立する身とは、人に迷惑をかけない生き方というのでしょうが、親鸞聖人は著書の中で「妄念はもとより凡夫の地体なり、妄念のほかに別の心もなきなり」と源信の「横川法語」を引いて、自称しております。
「人さまに迷惑をかけずには一日も生きておれない私でした」と、そっと静かに自答する生き方が、南無阿弥陀仏の生活なのだと、知らされています。
何卒、今年もよろしくご指導をお願い申し上げます。
大崎市古川 加藤 桂
今回縁があり、たくさんの皆様のご支援を戴きながら(財)日本遺族会企画のフィリピン慰霊友好親善訪問団は、 11 月 21 日の九段会館での結団式、翌 22 日から 28 日の帰国まで、総勢 135 名で、その一員として、私も父の戦死したフィリピンに行ってきました。
父は昭和 19 年 12 月 6 日レイテ島ブラウエン飛行場に於いて戦死(認定)です。中は空っぽの白木の箱ひとつで報らされた戦死、それでも父は生きていると信じ続けた今は亡き母の気持ちを想うと、あまりにも残酷です。
でも、一体この国の、何処で、いつ、あの激しい戦争が行われたというのでしょうか、と想うほど、レイテの空はあくまでも青く澄み渡り、空から見る海はエメラルド色に輝き、そして島中いっぱいの椰子の木の林立。
平和な思いで降り立ったタクロバン空港。
私たちを見ると、どこからともなく集まってくるたくさんの子供たち。貧しくても、でも、何よりも疑いを知らぬさまの、子供たちのキラキラと輝く瞳の深さと、ひとなつっこさに圧倒されそうな感じを受けながらの、レイテ島での慰霊巡拝が始まりました。
私たちの班は、北は青森、南は徳島まで 20 名、決して若くはない平均年齢 60 ?歳の遺児たち。
レイテ島は島全体が戦場であり、最も悲惨な激戦地あった事を考えれば、いつ、どこで、戦死したのかの特定は難しく、それでも、それぞれの父が戦死したであろうと思われるブラウェン飛行場跡地、ダガミ、カンギポツト、ビリヤバ、シラト海岸、オルモツク及びその近郊、アルブェラ、そしてタクロバン周辺追悼場所をまわり、涙、涙、涙、と、汗、汗、汗、の 4 日間の個人慰霊追悼、そして最後の慰霊追悼の地ではみんなで海に向かい、ありったけの声で、「おとうぅさぁぁん」「おとうぅさぁぁん」と幾度も呼びかけました。
今まで決して声に出せなかった父へのそれぞれの感慨は深く、積年の思いが吹っ切れた気持ちでいっぱいでした。
今でも世界の各地で戦争がおきています。勝者は正義をかざし…でも戦争に正義などはなく、その名の下に召集され無念の死を遂げた人々を想うと悔しさと憤りで胸が張り裂けんばかりです。でも父やその戦友の犠牲のお陰で現在の平和で幸せな日本があることを決して忘れてはならないと思います。
私たちは個人慰霊追悼の合間に小学校を親善訪問、学用品や衣料品等を寄贈し、又、祈念植樹等をし、 27 日に在フィリピン日本国大使館代表参列のもとカリラヤにおいて、全戦没者 50 万余の追悼慰霊式終了後の夜、マニラホテルで開催されたマニラの要人の方々との合同懇談会での現地の方の挨拶の中に、日本とフィリピンは、過去に戦争と言う不幸な出来事があった。しかし、戦争は憎むけれども、過去のことは過去のことと忘れ去り、二度と不幸な事を起こしてはいけない、これを教訓として、よりいっそうの友好関係を結び、共に平和な国を築こう、との趣旨の言葉があり、そのことが比国の学校教育の根源になっているとの事でした。
この地で見た、接した「こころ」を吸い込みそうなあのキラキラと輝く瞳、人懐っこい笑顔と自分の知ってる限りの日本語で挨拶してくれた、たくさんの子供たちの基本はここにあったのです。そして、これからの国を背負って行く子供たちの教育が、どれだけ大事であるか、と、改めて気づかされた旅でもあり、子供たちの笑顔に元気を貰い、平和がどれだけありがたい事か、感謝の気持ちで幸せになれた旅でもありました。
責任役員 赤間 栄夫
親鸞の誕生と死亡については、親鸞のひい孫に当たる覚如が著した「本願寺聖人親鸞伝絵」「御伝鈔」と親鸞の晩年の著作の奥書きにその著作がなされた年月日とそのときの自分の年齢を親鸞自身が書きつけてあり、そのことが合致することから親鸞が 1173 年(承安 2 年)に生れ、 1262 年(弘長 2 年)に数え年 90 歳で亡くなったことが明らかであり、親鸞の誕生・死亡については疑いの余地がなく定説となっております。
この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることの なしと思えばという道長の有名な和歌も絶頂期を迎えた権力者の満々たる自身を表しております。
私ことですが、息子が家を新築し、その家の一室で正月から妻と過ごしております。昨年は商売を廃業し、また母が他界をいたしました。したがって正月二日の売り出しはなく、年賀状の着信もない、まことにゆったりとした自分の時間を持つことができました。こんな正月は初めてでその時間の殆どを読書にあてることができ、あらためて正月を実感することができました。
「上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して而(しか)も争わず」(老子)
水は地形に逆らわず、しかも岩を削ってしまう力強さがあり、また、水は動植物に命の源の恵みを与えているのに人の嫌がる低きに流れ、高ぶりません。
東洋的人格の理想を象徴しているのが、水といってもいいだろうと思います。その人がいるだけでゆったりした気分になれる、そういう人が少なくなりました。水のようにさらりと生きたいものです。
東北別院報恩講は、毎年 10 月 15 日から 17 日に厳修されます。
今年も報恩講の日程に合わせて参詣と一泊懇親の旅を企画し、日曜日を泊りにするため 15 日は旅を楽しみ、翌 16 日は報恩講に参詣と決定しました。
15 日朝古川を出発。 20 名を乗せたバスは一路福島を目指して高速道路を走り、途中、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となったいわき市の塩野崎灯台を見学して昼食をとり、その後、ららミュウ→アクアマリンふくしま→野口雨情記念館と見学を続け、紅葉で色づき始めた山間の風景を楽しみながら袋田温泉「思い出浪漫館」に無事到着。懇親会では、同朋の笑顔とよどみなく続く歌や踊りに拍手の手休むことなく、身も心もリフレッシュしました。
翌 16 日は、朝一番に日本三名瀑の一つである袋田の滝へ、誘導路のトンネルを抜けた所が滝見台。トンネルを出た瞬間に突然現れる三重の滝の壮大な自然の素晴らしさに、同朋の口々には「ウワー」「オー」の歓声が上がり、記念写真には滝が入りきれない、そのスケールの大きさに感動しました。
その後高速道路を走り続け、午後 2 時、報恩講参詣に合わせ仙台の別院へ、私も法衣に着がえ出仕をさせていただき、いつもながら充実した旅でした。
ご参加下さいました皆様に感謝申し上げます。
(住職)
師走のある日の夕方近く、玄関のチャイムが鳴った。
仕事の手を休めて出て行くと、そこに五十がらみの男が手のひらに 500 円玉をのせて突き出した。「今、役場に行って小牛田までの汽車賃はもらって来たが昨日から食べていないので、この 500 円で夕飯を喰うと小牛田まで行けないので、夕飯代を恵んでくれ」というのだ。
私は常に玄米のおかゆを食べているのでにぎりめしは作れないし…お金はあげないことにしているので、夕飯の代わりにと客間にあったリンゴとバナナを差し出した。
すると男はニッと口を見せ、歯がないのでリンゴは喰えんとばかり、さればとバナナを出したら、手を振ってバナナは喰いあきたという。
是非もないナー、私は男に合掌をして、「ごくろうさん気をつけて……」
現代の「法衣人(ほいと)」は実に優雅である。
(住職)
一周忌 | 平成 18 年 | 三回忌 | 平成 17 年 | 七回忌 | 平成 13 年 |
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十三回忌 | 平成 7 年 | 十七回忌 | 平成 3 年 | 二十三回忌 | 昭和 60 年 |
二十七回忌 | 昭和 56 年 | 三十三回忌 | 昭和 50 年 | 三十七回忌 | 昭和 46 年 |
五十回忌 | 昭和 33 年 | 百回忌 | 明治 42 年 |
時期的にも、遠方からのお客さんらしい人々が多かったので、いつもこれ位利用客があったらいいと、経営者でもないのに思っていた。リュックを背に両手に荷物を持って立っている老婦人 2 人を見つけ、席を取ってあげた。しかし彼女達は遠慮したのか座らない。何となく気まずい雰囲気がしてしばし、二人は次の駅で降りるのだった。余計なことをしたもんだと後悔の念しきり。
先日、仙台へ出張のため特急バスを利用した。午前 9 時 30 分発、車内で偶然知り合いと会い話していたら、前の席の男性から「眠っているので話し声がうるさい、常識外れな!」といわれた。「気づかないでゴメン」と謝ったが「常識外れな!」これは余計な言葉じゃありませんかね……?
(住職)
宝池山浄泉寺 宮城県大崎市岩出山字浦小路113