宝池山浄泉寺寺報
 ◆平成 22 年 1 月 20 日(第 15 号)

発行者 浄泉寺住職 赤羽根 證信

  1. 今いのちがあなたを生きている
  2. 承元の法難
  3. 成願寺親鸞教室
  4. 東北別院報恩講参詣と山形県黒沢温泉への旅
  5. 年回表
  6. 「その人」米沢 英雄
  7. あとがき
  8. 会報一覧

今いのちがあなたを生きている

浄泉寺住職  赤羽根 證信

 新年明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
 昨年は、リーマンショックによる百年に一度といわれる世界的不況、自民党から民主党への政権交代など、激動の一年となりました。この地大崎市においてもその影響は大きいものがあると存じます。そのような中、浄泉寺の各事業を順調に進めて来られましたこと、ご門徒皆様のご協力の賜と深く感謝申し上げます。
 昨年古川成願寺において実施されました「親鸞教室」は、毎月多数の参加者のもと一年間充実した教室を開催することができました。一口に一年とは言っても月一度を12回欠かさず行うというのは大変なことで、ご参加いただきましたご門徒の皆様に重ねてお礼申し上げます。
 また、本山、仙台教区で重点に置く教化事業である帰敬式にも、本山参詣の折にご門徒数名の方々が参加され法名をいただいて参りました。帰敬式については今年も重要課題と位置づけ、推進して参りたいと考えております。
 明年(平成23年)は私達浄土真宗の宗祖親鸞聖人750回ご遠忌法要の年にあたります。その記念事業の一環として宗祖のご真影が安置されているご影堂(大師堂)の大修理のため、ご真影を一時隣にある阿弥陀堂にお引っ越しされたのが6年前11月29日の動座式でした。その折には坊守と二人で参詣いたしました。
 この度修復完成したご影堂に再びお帰りになる環座式が昨年9月30日に行われ、ご門徒の方々と参詣いたしました。ご真影は宗祖ご自身晩年の彫作でありますので、およそ750年以前から法難や受難の緊急避難以外はじめての移動だったと聞きおよんでいます。ご本山東本願寺(京都)は世界最大級の木造建築で、たび重なる法難による火災焼失から明治の創建以来はじめての大修理でしたし、そのご影堂いっぱいのご門徒の称名念仏の中お帰りになったご真影を真近にして感動を受け、誠に得難いものでありました。
 そのご影堂のセレモニーの中では、宗祖親鸞への思いをよんだ米沢英雄氏の詩「その人」が朗読されました。氏は親鸞聖人の研究者として、著書「信とは何か」「歎異抄ざっくばらん」「心の詩」などを著わされ、親鸞聖人についての講演活動をされた方です。
 今年も多難な年になるかと思いますが、事業推進に向けて一層の努力をして参りたいと存じますので各事業への積極的なご参加をお願い申し上げます。

合 掌

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承元の法難

責任役員  赤間 栄夫

源空勢至と示現し
  あるいは弥陀と顕現す
 上皇群臣尊敬し
   京夷庶民欽仰す

(高僧和讃)

「法然上人が勢至菩薩の化身としてこの世にお姿を示され、あるいは阿弥陀如来の化身としてお姿を示された。ときの上皇や群臣たちもこぞって上人を尊敬し、京の都や田舎の区別なく全国の一般の民衆もまた上人を敬いあおぎ慕っています。」と、親鸞は自作の和讃の中で、このように法然を讃えています。
 親鸞がいかに法然を尊敬していたかこの和讃によってうらづけられると同時に、その当時の人々が朝野をあげて、法然を尊び敬っていたかを知ることができると思います。
 しかしその反面、反発や反動も大きいものがあったのではないかと思われます。

▼南都北嶺
 これまで大きな権限を誇っていた南都北嶺の諸大寺と、それに連なる政治勢力の反発。圧力は強烈なものだったと考えられます。専修念仏は、ただ念仏一行のみを称することで救われ、他の諸行は一切必要ないというものですから、諸行を実践している諸宗派が一斉に反発したのも、ある意味では当然のことであったと思います。
「念仏一行」のみで救われるという易行性は旅行の深浅あるいは学識の深浅ということによって成り立っている仏教界におけるヒェラルキー(教権をもととする階級秩序)を一気に破壊してしまうことになりかねません。そして南都や北嶺の諸大寺が世俗社会に有していた特権的地位もくずされてしまう可能性もあります。これまで特権的階級の人々にのみ限定されていた宗教的救いがすべての身分・階級の人々にもれなく解放されることになります。このことについて法然は『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の中で明確に述べております。
▼選択本願念仏集
 もし仏像を作ったり仏塔を建てたりすることを本願とするならばそのようなことの不可能な貧乏人は、往生することはできない。しかし、この世の中には富貴な者は少なく貧乏なる者は甚だ多い。また、同じように智慧高才・多聞他見・持戒持律をもって本願とするならば、愚鈍下智・小聞小見・破戒無戒の人々は往生することができない。しかし、この世の中には愚鈍・小聞・破戒の人々が甚だ多くそうでない人々は甚だ少ない。そこで阿弥陀如来は平等の慈悲に催されて、あまねく一切の衆生をば救わんがために称名念仏一行をもって本願とされたのです。
法然のこの教えによって、念仏とは一切の衆生をもれなく平等に救うための本願であることが明らかになります。しかし、このことはまた、同時にこれまでの仏教思想が支持していた社会・身分・秩序を崩壊させてしまうのではないかという、守旧派の危機感をあおるということにもなりました。事実、専修念仏教団の中には破戒無慚をもってこととする傾向も全くないわけではありませんでした。
▼七箇条制戒
 当時の史料には「近年、都鄙に充満し、諸行を横行し(吾妻鏡)」、「女犯を好むも魚食を食すも、阿弥陀仏はすこしもとがめたまわず(愚管抄)」と半ばあきれ気味に伝えています。また、歌人藤原定家は日記「明月記」に法然の影響による貴族の妻室の出家を「天下の淫女」きそって「狂僧」に追従と書き記しています。 法然はリアクションを恐れ自分の弟子達に「七箇条制戒」を定めて、署名をさせております。

(親鸞の教えに学ぶ)

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成願寺親鸞教室

 仙台教区における最重点教化事業として昭和60年にスタートした親鸞教室は、最初の年に浄泉寺で実施されてから、教区内、年2ケ寺のペースで進められ、すでに50ケ寺に及び、今回古川成願寺を会場に実施されました。1年間という短い期間ではありますが、その会場での出会いは人によっては大きな転機にも成り得ます。
 1月に30名を超える方々が受講し、月一度の講習会ではなかなか実を得ることが難しいと思われましたが、その予想を覆す様に毎回充実した時間が持てました。「さっぱりわがんねがす」というご門徒さんの声を聞くたびに「それがわかればしめたものです」と答えておきました。教区内の実情はおよそそんなことだろうと思います。
 10月に本山同朋会館での研修に数名参加されました。その方々は帰敬式(おかみそり)を受式され、あらたに仏弟子の名のりとして法名が渡されました。その中のご夫婦から受式記念として経鏨のご寄進がありました。
 今回の親鸞教室を通して個々人の意識の奥に出会いのすばらしさ、不可思議な力はこののち時空を超えて鮮やかな光となることだろうと感じました。
 参加された皆さん1年間ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。あらためて感謝申し上げます。

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東北別院報恩講参詣と山形県黒沢温泉への旅

 東北別院報恩講参詣と懇親のための旅は毎年セットで行われ、今回は9回目で、旅は山形県黒沢温泉に決定し、浄泉寺と成願寺の護寺会会員13名の参加のもと行われました。
 別院報恩講は毎年10月15日から3日間厳修されるもので、今回は報恩講日程の中日である16日に参詣することとなりました。
 16日7時40分浄泉寺を出発、成願寺を経由して一路仙台市の東北別院に向かいました。
 別院では、10時報恩講開始、勤行、参詣者全員による正信偈唱和の後、東京教区・長願寺住職海法龍師の講和がありました。師の講和は、ご自分の日常の体験を交えた分かり易い表現と軽妙な語り口で親鸞の教えを説くもので、聴衆に深い感動を与えるものでした。その後参加者全員でその場で昼食(お弁当)をとり、午後には山形へと向かいました。
 村田から山形へは紅葉の美しいエコーラインを走り、バスの中には歓声が満ちておりました。しかし山頂の「お釜」はすでに紅葉も終わりかげんで道路も混みあうこともなくスムーズに進むことができ、無事黒沢温泉「喜三郎」に到着しました。
 宿での懇親会も歌や踊りで盛り上がり、ご門徒皆さんのコミュニケーションをさらに深めました。
 翌日は、山形物産センターでお買い物の後昼食をとり、村田の願勝寺を参詣して帰路につきました。

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年回表(平成 22 年)

一周忌 平成 21 年 三回忌 平成 20 年 七回忌 平成 16 年
十三回忌 平成 10 年 十七回忌 平成 6 年 二十三回忌 昭和 63 年
二十七回忌 昭和 59 年 三十三回忌 昭和 53 年 三十七回忌 昭和 49 年
五十回忌 昭和 36 年 百回忌 明治 45 年
大正元年

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その人

米沢 英雄

その人が亡くなってから 七百年にもなるという
だがその面影は 昨日の様に鮮やかだ
その人の苦悩 その克服
又苦悩を克服し得た歓びは 短い言葉に結晶した
その言葉はその人よりも もっと昔 悠久な時の中を生きつゞけて 来たのだという
その人は演説しなかった
その人は怒号しなかった
その人は激昂しなかった
いつもしずかに自分自身に 言いきかせていた
その人は大げさな ジェスチュアをしなかった
人類のためにつかわされたとは 言わなかった
人類の身代りになるとも 言わなかった
自分一人の始末がつきかねると いつもひとり嘆いていた

その人は子供を喜ばすプレゼントをもって来なかった
みんなに倖せを約束しなかった
只古臭い言葉に 新しい命を裏打ちして 遺して行っただけだった
その人の悲しみを救うたものこそ
その人の遺して行った言葉こそ
人類のすべてがやがて仰がねばならぬものではなかったか

その人の生涯は はじめから不幸だった
幼くして両親に死別れ唯一人の 師と頼んだ人にも生別れし
家をなしたのも束の間  一家は離散し 諸国を放浪し
この世の片隅に 一人しずかに生きて
魚の餌食になりたいというて 死んで行った
その人の小さな内省的な眼
あれが自己の中に巣喰うて 遂に離れぬエゴイズムを
しばらくも見逃さず みつめつゞけた眼だ
之が生涯この人を泣かしめた  またその故に本願を仰がしめた
世間的には 不幸な生涯ではあったが
その生涯の支えとなった本願と
本願の生きた証明者である その師に
遭い得たことを 最勝のよろこびとして やすらかに往生したという

その人の御名の語られるところ
そこには 今もしずかな喜びがあふれ 涅槃に似た平安(やすらぎ)がある
その人はその後幾多の魂の中に 転生した
之からもどれだけの魂に宿り  その悩めるものを勇気づけ
真実の喜びを 与えて行くことであろう
噫 あなたこそ 無量寿であり無量光ではないか

あなたによって 真実に眼を開かれた私は
本願の松明(たいまつ)を リレーする走者となって
命の限り走りつゞけて  自らを照らすと共に
次のジェネレーションに  確かに手渡さねばならぬと
今改めて思う

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あとがき

 昨年9月30日から2泊3日ご門徒さん数人と本山還座式に参詣して宗祖の旧跡をめぐり、翌日久しぶりに奈良興福寺公園近くの宿に泊った。
 宿のおねえさんの勧めで、ライトアップしている興福寺の国宝五重塔を見物に出かけると、暗い公園のまばらな人の中で修学旅行の集合写真を写している業者から声をかけられた。「どちらから来ましたか?」「仙台です」と、「なつかしいね、私は県北築館の出身です」「いやいや、私達は古川っさ」
 彼は今、広島県福山市で写真屋を30年やっているらしい。 福山には私の友2人が住んでいる。早速ケイタイで連絡。今、その人々と御地で同郷の友として新しい出会いが進んでいるそうだ。思えば出会いははてしない。
 さあ、新しい出会いの時を探して、先ず一歩踏み出しては如何

住職

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宝池山浄泉寺 宮城県大崎市岩出山字浦小路113