釈迦内柩唄

水上 勉 作

〈ストーリー〉

釈迦内は秋田県の、花崗鉱山が近くにあった在所の地名。 その地で親の代からつづいた死体焼き場の仕事をしている家族。 その仕事を引き継ぐことになった末娘・ふじ子の物語。

酒を呑まずにはいられなかった父・弥太郎が死んだ日、ふじ子は父を焼くカマの掃除をつづけていた。 ふじ子の胸に、さまざまな思い出がよみがえる。

「なして、人はオンボの子、焼き場の子と馬鹿にし、冷てえ眼で見るんだべか」
「なして、お母はこんな家さ嫁に来たんだべか」
「なして、姉たちは普通の生活が出来ねえんだべか」

昭和20年終戦間近なある吹雪の夜、ふじ子はまだ小学6年生。 コタツを囲んで家族の楽しい団欒のひととき、一人の傷を負った怪しげな男が転がり込んで来た。

「こんた、吹雪の晩に訪ねてくる人なんていねぇあんだ…」

家族はその男を暖かく迎える。 父は酒を勧め、母は故郷の木挽き唄をうたい、ふじ子は舞踏を披露した。 誰も訪れない焼き場の夜に、にぎやかなひとときが流れる。

その男は、朝鮮の民謡をお礼に唄った。 彼は花崗鉱山から脱走してきた朝鮮人、崔東伯でした。

この直後、彼は憲兵に見つかり射殺され、悲しみの中その遺体をふじ子らの手で火葬することになった。

父が山の畑いっぱいに育てたのは人の灰で育ったコスモスでした。 人の顔かたちが違うように、コスモスの花もまた、ひとつひとつ違って風に揺られて咲いている。

「こいはお母はんがもしれねぇな…。あっちの白ぇ花っこは殺された朝鮮の崔さんがも知れね…。」 「大臣も百姓もねえ、みんなおんなじ仏様になるぁんだ、釈迦内で死んだ者らがそれぞれの顔して、風に揺れてさいている…」

父の言葉が心に浮かぶ。父が大好きだった唄をうたう。 ふじ子はこのとき「お父の仕事」を継ごうと決心した。


〈薮内ふじ子の現代〉

川上 勘太

川上勘太水上氏の信州の山荘を訪ねたのは雪解けがはじまった春先の頃だった。 「釈迦内柩唄」の上演許可といくついか質問したいこともあっての訪問であった。 高齢は知っていたが体が不自由な上に話をするのもつらそうな状態のときであった。

中国を取材中「天安門事件」(1989年)に遭遇したのが原因と、その時知った。 自由と民主主義をかかげる民衆を軍隊の戦車が踏みつぶす惨状を北京のホテルで眼のあたりにした、との事だった。 帰国して間もなく心臓発作を起こし、そのまま心筋梗塞で倒れることになる。 一命はとりとめたが後遺症が残った。 山荘にたてこもって食事療法とリハビリの生活の時だったのである。 中国の民衆を解放したはずの人民軍が数十年を経て同じ民衆を戦車で踏みつぶす悲劇、人間解放への事業が、こうも無惨に裏切られるのだろうか。 「釈迦内柩唄」にとりかかる出鼻に、水上氏が視たこの事件の真相は、上演の手続き以上に私の心の底に沈殿することになった。

氏の作品は最初に世に出た「雁の寺」から「飢餓海峡」「越前竹人形」「五番町夕霧楼」いずれも映画化され、一躍国民的人気作家となった。 北陸の生地、若狭での生活に想を得たものが多く、時代に取り残され、強者のエゴに押しつぶされる貧しき者、力弱き者へのやさしい眼差しが根底に流れている。 氏の生い立ち、9歳で口べらしのために親元を離れ寺での修行、脱走、放浪、放蕩をくりかえした青年時代が色濃く反映している。 だから弱者や貧しき者への、同情や憐憫を越えた冷徹な眼、救われることのない現実も又リアルに描き出している。 もっと救われる結末になって欲しいとねがうのは私だけではないと思う。

「釈迦内柩唄」を一読して、死体焼き場の仕事を引き継ぐ娘に激しく心を揺さぶられた。 私の知っている水上文学に新しい光脈を発見した思いであった。 人間の世界から隔絶された焼き場の家族、さげすまれ、酒を呑まずには生きれなかった父親の一生。 その父親が残したコスモスの花畑は、焼いた人の灰が育てたものだった。

父親が教えたわけへだてのない人の心であった。 人はいずれ死ぬ。 誰も知っていながら、しの死を恐れ、忌み嫌い、死をみつめることを避け疎外する。 その延長線に私は人の差別をみる。 娘、薮内ふじ子が「女」としての生き方を閉ざされ怒り狂うのは、獲物をねらうけだものの生死をかけた闘いに似ている。 その闘いのあけくれに疲れ果てた末にたどりついた「空」の世界、運命を受け入れ生きようとするときに見えてくる世界、薮内ふじ子の新しき境地であった。 失うものをもたない生命力というべきだろうか。 さげすみや反抗から自らを解放するとき人間は限りなく美しく、豊かであるにちがいない。 混沌の時代にあって、ふじ子がたどりついた境地はきわめて現代的である。

1997年 劇団代表

〈「釈迦内柩唄」を通して出会った人たち〉

劇場制作 玉井 徳子

玉井徳子私は東京の職業劇団、希望舞台の制作部で芝居『釈迦内柩唄』を日本全国に宣伝する仕事をしていて、1年中旅するという生活を40年続けています。昨年は兵庫県姫路市で劇団員数人と部屋を借り、そこを拠点に33公演を実施してきました。そして今年はどうしても大阪で『釈迦内柩唄』を公演したいと思い、4月から府内へ引っ越す予定になっています。私たちが人生を費やしてこのような生活を送っているのは、やはり芝居を通じて世の中に話さずにはいられないもの、確かめずにはいられないものがあるからです。

私は、この仕事を通じて多くの人びとと出会うことができました。例えば数年前に神奈川県秦野市で当時77歳の女性と出会って、彼女の被爆体験を聞かせて貰うことができました。彼女が話してくれた体験によって、私は、まさに地獄を伝えてもらいました。しかし、彼女は地獄を伝えているはずなのに聞いているうちに心に温かいものが伝わってきて、最後には生きることがいとおしく感じられるような気持ちにしてくれる、そんな愛にあふれた話でした。

その彼女が仲間と一緒に人を集めてくれたおかげで、私たちは秦野市でも芝居を公演することができました。 また北海道では『釈迦内柩唄』の主人公と同じ火葬の仕事をしている男性と出会うことができました。昔、彼は東京でヤクザの組長でしたが、今のヤクザの義理人情の無さに嫌気が差し、ヤクザを辞めて北海道に流れ着いたそうです。しかし妻が病に倒れてお金が必要になっても、前科のある彼が働ける仕事はなかなか見つからず一時は自殺も考えたとのことでした。そんな時、回覧板で偶然見つけた火葬場の仕事に、彼はそれまでの罪滅ぼしの思いも込めて就くことになりました。そんな彼が『釈迦内柩唄』の芝居に共鳴して、その後の公演にも協力してくれたのです。

『釈迦内柩唄』はこれまで全国で304回公演してきたわけですが、この芝居は行く先々で出会った人びとが共感してくれることで成り立つステージです。そして名も無き劇団だからこそできる温かみのある芝居なのです。私たちは演劇とは希望を語るもので、台詞や物語の筋だけではなく芝居全体を通じて語るものだと考えています。今の世の中は私が子どもだった時代より人が信じられない、生きることが素敵だと言えない時代になっているのではないでしょうか。そんな時代だからこそ他人の痛みや心が演劇を通じて感じあえるようにしたいと思っています。

私は裏方なのでいつも舞台裏から客席を見ているのですが、他人の怒りや悲しみや喜びといった感情を共有できた時のお客さんの表情は皆輝いています。それを見る度に人間は素晴らしいと感じます。そして同時にこれが私たちの闘いでもあるといえます。他の命を貰って生きている人間は生まれながらにして罪を背負って生きているかもしれませんが、その反面、人間には素晴らしい一面もあります。そんな心の砦を今の世の中に実現していきたいというのが、私たち希望舞台の思いです。

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